8月20日。
早朝2時過ぎ。
「いよいよ動くときがきた。」
とうとう僕は宇野港行きのフェリーに乗ることを決めた。いまとなっては「あと2時間待てなかったのかな」と後悔してしまうのだが。とういうのも、高松~宇野間は約1時間で行き来できるのである。もし4時過ぎの便に乗船できれば船内から日の出を拝めるなと思うのだが、何を思ったのか船内で仮眠をするつもりで3時前発の宇高国道フェリーに乗ることにした。(本航路のもう一社の四国フェリーの方は小豆島に行く際系列の小豆島急行フェリーを使ったので今回は使わなかった。本航路は2社で競合しているせいかなんとまあ高松港での両船会社のネオンサインが派手なこと。日本で24時間運行をしている航路は珍しいかもしれない。)これまで6日間も外に出っぱなしだったから仕方ないことだったか。
僕が乗った船にはトラックが何台か乗っていた。さすがに真夜中に徒歩で乗船したのは僕一人だった。高松港を出港すると真っ暗闇の中を進んでいった。せっかくなので船内を探索したり瀬戸内海をみたりしたかったのだがこれまでの疲れがたまっていたせいか、ちょこっとだけ歩き回った後、船内に長椅子があったので横になって寝てしまった。船名は忘れてしまったのだけど、宇高航路の船舶には両社とも船の大きさの割には浴室もあるらしいのだ。スロットはすぐわかったのだけれども浴室はどこにあるのかはわからなかった。この船にも煙突らしい煙突をみつけることができなかった。宇高航路のフェリーも写真に撮っておけばよかった。(最悪、今後道路行政のあり方によっては廃止になる可能性もあるならなあ。)
それと、乗って分かったのだけれども思ったよりも船の速度が出ていない感じがした。おそらくこの海域には速度制限があるのであろう。海上から瀬戸大橋を見ることができるかな?とかすかに期待はしていたのだが、まあ真夜中のことだしライトアップすら終わっているのだろう。どこにあるのか全然分からなかった。
1時間ほどするとようやく宇野港に入港するのであった。たしか4時くらいだったかな。しばらく海沿いを歩いて宇野駅に到着、始発電車まであと1時間くらいあるので僕は駅の待合室で寝ることにした。かつて宇野駅は宇高連絡船の接続港として非常に賑わっていた(とてもおおきな駅だったらしい)のだけれども連絡船廃止後駅はだいぶ縮小されたみたいだ。
茶屋町行きの始発列車が動きそうなので僕はさっそく切符を買いこの列車に乗った。茶屋町駅で岡山行きのマリンライナーに乗った。と、いうことは高松駅から岡山行きの始発列車に乗ったとしても岡山駅につく時間は変わらないのか・・・。船に乗ったのは無駄だったかな。と思ったが最初からフェリーを使うつもりだったのでまっ、いいとするか。
僕は岡山駅から山陽本線糸崎行きの列車に乗り換え、尾道へと向かった。
倉敷駅や福山駅を過ぎ、朝8時前。尾道駅に到着した。
ちょうどこの文章を書いている2010年秋のこと、ここ尾道市をメインとした朝の連続テレビ小説『てっぱん』が始まっているが、かつては大林宣彦監督による『尾道三部作』なる青春映画の舞台でもあったので前々からここには来たかったのだが、福岡からだと意外と距離もあり時間や予算の都合により2008年8月20日まで足を踏み入れることはなかった。やっと長年の念願が叶ったのである。
とはいうものの実のところ、どこに名所があるのか全然知らないのである。行く直前、福山とならびラーメンが名物であることを知ったのだが、朝からラーメンを食べることができるのだろうか。食欲はさておき、朝っぱらから店自体開いているかというとそれはそれは微妙であった。
駅から出ると、目の前に川か海らしきものが見えた。尾道水道だ。土渕海峡ほどではないのだが尾道水道も幅は非常に狭いのだ。東の方には“しまなみ海道”の一部である新尾道大橋や向島行きの渡船が見えた。僕はとりあえず尾道の名物である渡船に乗ってみることにした。乗船して5分ほどで対岸に着いた。
向島。本土の向かい側にあるからこう呼ばれるようになったのだろう。島に移動中最初に見えたものは造船所であった。(正確には駅前からとっくに見えていたのだが)向島のとある造船所で映画『男たちの大和』の撮影に使われた戦艦大和のセットがあったらしい。最近では朝ドラの撮影に造船所または工場が使われているみたいだ。さすがに敷地内に入ることはできない、入ってもすることがないのでとりあえず島内を歩いてみることにした。しばらく歩いてみたけれども特に目立つ建物や商店街らしきものは見つけることはできなかったのと、そこまで滞在時間がないのもあって再び市街地の方へ戻ることにした。実は向島もなかなか広いみたいだ。
渡船場に向かう途中、レトロな木造の建物を発見した。現在は路線バスの待合所として使われているのだが、見た目はどうやら一昔前は渡船場として使われていたよう感じだ。僕がこの建物を訪れた際、ちょうど中学生らしき女の子3人と1人の老婆がやってくるバスを待っていた。これから海水浴にでも出掛かるのかな。どうやら向島にはいくつかの海水浴場があるらしい。建物前に出ている看板を読んでみると、どうやらこの建物は大林宣彦映画『あした』の撮影に使われていたセットだそうだ。よく出来ている。
建物内には誰もいなかったので、じっくり部屋を見てみることにした。かつての連絡船の待合室であるという名残がそこらかしこにあった。さすがベンチの広告は船用品会社のものであった。ちなみに、「呼子丸」は『あした』に登場した(架空の)船であり、撮影後老朽化したために廃棄されたそうです。改めてよく出来た建物(とういかセット)だと思う。いつ建造されたのか分からないけど、ホント昭和初期に建てられた感がある。
ほどなくして僕は向島側の渡船場に着いた。たしか行きの渡船とは違う会社だったと思う。実際のところこのような雰囲気の場所を生で見たことは無いのだが、この渡船場の建物自体になんだか懐かしさを感じた。(おそらくホーローだと思う)看板は雰囲気があっていい。連続ドラマ『てっぱん』の中でも下に載せている渡船場が何度か出ています。とりあえず僕は向島を後にすることにした。
市街地の方に戻った僕は、山の方に向かうことにした。上記の写真のように尾道の中心部は山が迫っている地形である。そのため尾道側の渡船場からちょっと歩いたところに山への入り口らしきもの(山陽線のガードをくぐれるところがあった)があった。千光寺山だ。こう書いていると“こんぴらさん”以来また登山でもするのかと思いがちであるが、ここにもちゃんと千光寺山ロープウェイという乗り物があるのだ。当然ながらではあるが松山城以来ロープウェイに乗ることにした。乗車中、寺社仏閣らしきものの上空を通りすぎた。
千光寺公園。ここは千光寺山にある真言宗系単立寺院、千光寺の住職や地元の有志により公園として整備されたそうだ。日本さくら名所100選に選ばれている。春に来ればすごいことになっているのだろう。展望台からは尾道市街地や向島、しまなみ海道が眺められる。ということで、尾道の写真はここから撮られていることが多いそうだ。例のごとく僕も展望台から写真を撮ることにした。
改めて千光寺公園から見た瀬戸内の眺めの写真を見てみると長崎のグラバー園から長崎市内を眺めた雰囲気に似ている気がしてきた。長崎との違いとしてここ尾道は千光寺の例に挙げられるように、日本式の古めの寺社仏閣が多い。(それに比べ長崎は洋館や中国の建物があり異国情緒ただよっている)そのため、尾道観光の目玉として古寺巡りをすることもあるそうだ。重要文化財も多々あるみたいで、おそらく山の方にあるのであろう。坂を上ったり下りたりすればいい運動になるか。坂道は石畳で舗装されているそうです。寺社仏閣と並んで美術館や博物館も多くあるみたいだ。それと名前だけは知っているのだが村上水軍はこの辺りを中心に活動していたそうです。
山を下りた僕はそろそろ西の方に移動するため尾道駅に向かった。ロープウェイの乗車口から尾道駅までの間には昔ながらの商店街があった。アーケード内には多くの店舗があり、朝早かった割にはけっこう人通りが多かった記憶がある。たしかシャッター通りになるほど寂れてはいなかったのではないかと思う。たぶんこのアーケードは映画の舞台にもなっているはず。ただ、商店街の中にラーメン屋さんを見つけることが出来なかったのが残念だった。ということで、尾道ラーメンを食べることはできなかった。この時点で朝10時前だったからあそらくまだ食堂は開いていないだろうな。店が開いていたとしても食べきれたかどうかは微妙だったことだし・・・。
まだ朝早いけど尾道を後にするか。僕は尾道駅で三原方面行きの電車に乗ることにした。
この街を見て回って思ったことが・・・ちゃんとしたカメラを持って来ればよかったなあと。絵になる風景がたくさんあるので、今度行く機会があれば絶対カメラ持参しなきゃ。それと、『尾道三部作』や『新尾道三部作』もみなきゃ。良い街だと思った。
尾道を後にした僕は西の方に向かった。三原駅で呉線の電車に乗り換えることにした。本旅行で行きは山陽本線を使い瀬野八越えを通った区間なのだが、(当初の計画していた通り)帰りは海沿い、いわゆる呉線を行ってみることにした。
どうやら僕が利用した2008年夏時点と現在では山陽線広島県中~東部での列車の運用方法が変わったみたいだ。昔は山陽線下関~岡山間の直通列車(普通、一部快速区間有)があったのだが、昨年から三原駅または糸崎駅で必ず乗り換えないといけなくなったらしい。ちょっと惜しい気がするのだが、この点に関してはまた後で話すことにします。
三原から呉線広行きの列車に乗った。さすが海沿いを走るだけあってこの区間の眺めは最高だった。車窓の写真を撮っておけばよかったな。途中、瀬戸内の島々を眺めることができた。途中下車して橋や船を使って島に渡るのもいいかも。ただ何もない海岸線を走っているだけかと思っていたら、突然大きな造船所が見えてきた。個人的に見慣れていた船会社の新造船が造られている真っ最中だったので驚いた。製造中の船のファンネルマークを見て気づいたのだ。(ちなみに僕が目撃した船はクイーンコーラルプラス。本船は2008年12月より鹿児島~奄美諸島~沖縄間で運用開始されています)だんだん造船の町呉に近づいているのだなと感じた。もうしばらく走ると広駅に到着、広島方面行きの電車に乗り換えちょっとすると呉駅に到着するのである。たしか昼過ぎだったとおもう。なお、2010年秋現在呉線広~三原間は当年の梅雨時に起こった災害の為不通のままである。観光列車も運行されている区間であることから早く運転再開をすることを願っています。
呉駅に到着後、ひとつだけ行こうと決めていた目的地はあったのでとりあえずそこに行くことにした。
その目的地とは話題の「大和ミュージアム」である。2005年に公開され大ヒットした映画『男たちの大和/YAMATO』で使われた戦艦大和のセットがあることは知っていたのだがこれ以上のことはわからなかった。
「広島の原爆資料館を見たのなら大和ミュージアムもみなければ・・・。たぶん戦争関連やこの映画関係の資料が多くあるのだろう。」
と思って施設に入ってみた。第一印象はできたばっかりの話題のスポットだからとにかく人が多いなと思った。まずは明治維新から太平洋戦争終了までの呉ならびに呉海軍工場の歴史や旧日本海軍関連の兵器に関する展示が行われていた。軍事に興味がある人なら見入ってしまうだろうな。広島県にあるだけあって当然ながら戦争や原爆投下に関する資料や写真などが多くみられた。呉市は戦艦“大和”を造った旧日本海軍の造船所があっただけあって重要な軍事都市であった。(昔から村上水軍の居城としても使われた良港だったらしい)そのため戦時中は連合国軍により何度も空襲を受けることとなってしまった。次の写真のように今でも海上自衛隊の基地があり多くの艦船が停泊しているのだ。
戦後、海軍で培われてきた技術は造船をはじめとして様々な科学技術に役立っていくのだった。当ミュージアムは科学博物館の一面ももちあわせているようだ。戦争関連の資料を見終わると日本が誇る最先端の科学技術に関する資料を見ることができた。
先ほども触れたように今でもここは軍事拠点としてとても重要なのであるのは間違いないのだ。そのため海上自衛隊関連の施設が多いこと。有刺鉄線で囲まれた施設もあることから佐世保市と同様に米軍基地があると思いきやそれが呉にはないのだ。とはいえ米軍の艦船が寄港や修理しにきたりすることはあるだろう。たしかにあんなにたくさんのたくましい体つきの外人さんを見た佐世保に比べ、呉の街中でほとんど外人さんを見かけることはなかったのは今思い出してみるとそれは意外だった。
大和ミュージアムを出ると、そこには港が見えた。呉港だ。造船の町だけあってどうやら奥の方ではタンカーが造られている最中(どうやら現在はIHIの造船所として使われているらしい。たぶん進水式も終えてもうすぐ引き渡されるのであろう)であったのだろう。また、目の前の港では江田島行きのフェリーが出港を待っていた。この船も尾道でみたような小型の船で船体の前後に操舵室やスクリュー、舵があり前後に進むことができるのだ。乗船する車も方向転換せずに済みます。ちなみにここからは松山行きのフェリーも発着しているらしい。
これらの写真はいずれも大和ミュージアムのある建物から見ることができます。少々話が飛んでしまった感があるので、ここからは再び大和ミュージアムのお話を。なんといってもここの目玉は“1/10スケールの戦艦大和”が詳細に再現されていること。このモデルやいくつかのセットを基にして『男たちの大和/YAMATO』が撮影されたらしい。ご他聞に漏れず僕自身も小学生の頃大和のプラモデルを作ったのだが、なんとまあスケールの大きいこと。相当な制作費がかかっているだろうなと想像できた。常識的に博物館内の展示物の写真は撮らない方がいいと思ったので写真はないのだが、これだけは撮っておきたかったなと今になって思う。
それに、「未来へ」の項目で“大和”といえば『宇宙戦艦ヤマト』関連の展示もあったな。
ということで大和ミュージアムでは軍事や戦争、原爆をはじめ日本の近代史と平和学習ができるのと同時に戦後は船舶工学をはじめとする科学技術に関することも学習することができる施設でもあり、またじっくりと見てみたいと思った。広島市にある原爆資料館とならび親子でも見に行った方がいいのかもしれない。
大和ミュージアムのそばには海上自衛隊呉資料館、いわゆる“てつのくじら館”もある。都合により今回は入れなかったのだが、ここでは海上自衛隊の歴史がわかるらしい。それと実際に使用された潜水艦の見学もできるみたいだ。自衛隊や潜水艦に興味があればぜひとも行ってみては。僕も今度そっち方面に行くことがあれは見学してみることにしよう。
「さて、大和ミュージアムを見学したから今度は行きの行程で見ることができなかった宮島の厳島神社に再挑戦してみることにするか。」
ということで、呉から宮島方面に向かうことにするのだが・・・そう簡単にはいかないのだ。
さすがに夏空の下1週間も外に出っぱなしだと疲れが溜まってくるものであってちょっと体調がすぐれなくなってきてしまった。自分自身もともとそんなに体力があるわけでもない、しかもゆうべはそんなに寝ていないことだし当然のことか。幸いにして2010年のように猛暑でなかったのだけは助かったのだが。休憩場所を探していたところ、駅の近くに(たぶん天然温泉だと思う)温泉施設らしきものがあったのでここで数時間ほど休むことにした。展望風呂から呉の港町を眺めた後しばらく施設内で横になっていた。
このあいだに呉市に関して補足を。僕が訪れたときは知らなかったのだがいろいろと名物があるみたいだ。産業では造船業に関連して鉄鋼、機械、万年筆(セーラー万年筆)も盛んだ。仁方地区で国内のやすりの95%が生産されているそうだ。また、食べ物に関して。呉のメロンパン全国的に販売されているものと全く違うものであるらしい。それに蜜饅頭やフライケーキなるお菓子もあるそうです。そういえばフライケーキはこのあいだテレビで紹介されていて沖縄名物のサンダーアーダギーに似ておいしそうだった。このあたりの情報があれば現地にいたときに食べていただろうなあ。
まだちょっとは体調の方も落ちついてきたので今度こそは呉を出ることにした。広島方面行きの電車に乗った。岩国か可部行きの電車だったと思うが行き先は忘れた。広島駅で乗り換えたから可部行きだった可能性大か。学生たちが帰宅する時間と重なってきたみたいで電車の中はけっこう混んでいた。広、呉、坂といいなんとまあ呉線には漢字一文字の駅名の多いこと。JR西日本の車両についての感想は後述します。
広島を過ぎ、しばらくすると初日に来た以来宮島口駅に着いた。残念ながら着いたときにはとっくに日が暮れてしまっていた。ホントなら夕方には到着したはずなのだが、旅は人生と同じくなかなか計画通りに進まないものだ。次に乗る電車に間に合わせるために、ここでの滞在時間はわずか1時間しかないのだ。駅の改札を出ると厳島神社に行くため一か八か再び宮島連絡船に乗り宮島に渡った。昼間の便なら厳島神社の鳥居に近づいてくれるのだけれども夜行便は港間を直線で結ぶため船内からライトアップされた鳥居を撮ってみたが、ちっちゃすぎて何がなんだか分からない写りになってしまった。
「上陸してから撮ってみるか。」
と思っていざ宮島に再上陸した。宮島港の時刻表を見てびっくり。滞在できる時間はたった20分くらいしかないのだ。あわてて厳島神社の方に向かった。前回の上陸と大きく違うのは観光客がほとんどいないことだ。もちろん土産物屋さんもほとんど閉まっていた。(まあ年一、二を争うぐらいの多さだったからなあ)人がいないかわりにシカの数の多いこと。海岸沿いをいそいで神社の方に向かった。ライトアップされた鳥居が見えてきた。しかしながら足元にはシカの群れが、おまけに時間がない。どうやらお土産の生八つ橋を狙っているみたいだ。
時間に限りがあるもので鳥居を目の前にして宮島を退散することを決意した。よく知らないが拝観時間に制限がありそうだし今回も諦めることにした。
「人生引き際も大事である。」
進むのも大変だけれど、身を引くタイミングを決めるのはもっと大変である。
厳島神社を参拝することはできなかった。“三度目の正直”というわけにはいかなかったのだ。前年の夏にも宮島口までは来ることができたのだけれども、このときも宮島上陸はできなかった。ホント僕と厳島神社には縁がないみたいだ。たくさんのシカに追われて今回も宮島を撤退することにした。
ここで宮島(厳島)に関してちょっと補足を。ここは古代から崇拝の対象とされているため、どうやらこの島には神様が宿っているとされ多くの風習があるらしい。またここには“世界文化遺産”厳島神社以外にも仏閣がある。それに宮島水族館や紅葉も見所であり、現在も多くの観光客が訪れるのだ。いつか尾道とともに宮島の紅葉を見てみたいものだ。
僕は宮島口駅から下関行きの最終電車に乗った。この電車に乗ると終点下関で小倉行きの終電に乗り換えられる予定だ。これから約3時間半の長旅だ。(しかも下関まで乗り換えなしで行けるのだ。)列車内は座れないほど混みあってはいなかったので乗車中はずっと座ることができた。
本章の冒頭部でちょっと述べたのだが2008年当時は山陽線下関~岡山間の直通列車が日に何本か存在していて本系統の列車の走行距離は全国一を誇っていた。おそらく全区間乗車するとなると6時間以上はかかるのかもしれない。新幹線だとこの区間は2時間かかるかかからないくらいだろう。しかしながら2010年のダイヤ改正時点から本系統の分割がされるようになり、多くは三原駅または糸崎駅で乗り換えるようになってしまい、直通列車は減少したということを耳にした。この区間ではその他新山口(かつてはJR九州の車両も新山口まで直通していた)や徳山、岩国、白市、広(昔は下関発呉線経由広行き列車もいたな)で系統が分かれる列車もある。
こんな話になったのでもうちょっとだけマニアックなお話を。四国編でJR四国の車両について書いたのでここではJR西日本の車両について感想を書いてみることにします。大阪近郊(京都線、神戸線、宝塚線、嵯峨野線など)とキハ120系を使用している路線(山陰線の一部や美祢線等、これまでの車両が老朽化したり性能が劣っていたりしていたのであろう)では新車を使用している。特に大阪、神戸、京都近郊には近鉄や阪急、阪神をはじめ多くの私鉄と競合するせいか電車のスピードが速い。(列車の形式・型番まではよく覚えていないので省略しますが)新快速に乗ると他の地域の特急列車と並ぶほど速いのだ。首都圏と同様に複々線化されているようで列車線(新快速が使用する線路)の通過の駅にはホームがないみたいである。座席の配置は快速型に使われる型でクロス転換シート、各駅停車用(通勤型)でロングシートの車両が使われているみたいだ。今回は乗らなかったのだが、同じ関西圏でも大阪環状線や桜島線、関西本線などに使用されている車両は旧国鉄時代からのものが現役として残っている。
一方、岡山、広島、下関を中心とする路線では旧型の車両を改造して延命工事をしているものが多い。10年くらい前に下関地区で初めて乗った車両に比べ現在は改造(いわゆる延命工事)されたものが多い。岡山地区では一部旧マリンライナー用の車両(そこそこ新しめ)が走っているのだが、広島地区の車両は大都市にも関わらず(関西や九州に比べ、四国は年式的には新しいのだけど・・・)古さを感じた。関東では廃車になった103系や113系、115系など。とはいえ、長距離を走る車両(115系)についてはボックスシートをクロス転換シートに換えたり窓枠を取り替えたり内装を換えたりしているよう(内装や座席は関西の快速型とそこまで変わりがない気がした)で“改造車”の乗り心地は思ったよりも良かった。改造はしていないと思うけど行きの福山~倉敷間で乗車した117系も長距離乗れる車両だと思った。僕は呉線で利用したのだが、さすがに“一昔前の通勤電車といえばこれ”という103系は古いかなと感じてしまった。(昔から存在している形式なので覚えている分は載せてみました)
さすがに(帰路にあたる)宮島口→下関間の列車に乗車している際、
「車の外は真っ暗で特に記憶に残った風景はなかった。駅のホームにも人がいないからなあ。」
と言いたいところだけど一箇所だけ夜景のすばらしいところがあった。徳山駅の東寄りだ。ここには石油コンビナートがあり夜になると工場がライトアップされるのだ。最近では“工場萌え”なんていう言葉もあるらしいのだが、なんとなく分かるような気がする。少なくとも九州ではほとんど見かけることのない風景だ。思いつくとしても北九州市黒崎や豊前市くらいかな。それと、下松駅の近くには日立の車両工場があって、九州新幹線をはじめとして九州地区で走っている電車の半数はここで製造されているのだ。
夜12時前。下関駅に到着し、すぐに出発する小倉行きの最終電車に乗り込んだ。個性的な車内を見てとうとう九州に戻るのだなと思った。終電車とはいえ、ガラガラではなかった記憶がある。とうとう本州を離れることになってしまった。5分もすると九州に再上陸した。さらに7~8分ほど走ると本日の最終目的地である小倉駅に到着した。安いホテルもあったのだが、1時間ほどは24時間営業のファーストフード店で夜食をとり、夜が明けるまでは見知らぬおじさんたちと共に初めてサウナで過ごすことにした。小倉については次章でお話します。
この旅も残り1~2日となったな。(この時点で未計画な点もあるので何時終了かまだ決まっていないのである)