「さあ、旅に出かけよう。」

ホントなら遠くに行きたいのだけれども、その前にしばらく前哨戦。

学校や仕事の休日に何度となく通っていた場所があった。

特定のお店に通っていたわけではないが、基本的に外に出ることは好きだったのだ。

九州北部地方は車がなくとも移動することができるのだ。

当時は車買えるほどの金銭的余裕など全然なく交通手段は専ら電車やバス。

ということでこれからしばらくの間、福岡市内から日帰りで移動できる範囲について残してみようと思います。

福北ゆたか線(篠栗線・筑豊本線)の列車に乗る

まずは福岡県北部、筑豊あたりを中心に記憶を思い出してみます。

休みで暇なときや都会の人ごみに対し嫌気がさしたとき何度も博多駅から電車に乗ったものだ。

2008年5月、見納めということで筑豊地区の写真も収めてみようと思った。

しかも鹿児島線ではなく福北ゆたか線(篠栗・筑豊線)の電車に乗っていたなあ。

また、いらない情報ですが2000年頃までは今は無きキハ66 67系やキハ200系初赤い快速の牙城でした。

八木山峠越え

博多から約40分もすると糟屋郡の平野部や八木山のトンネルを抜けるといよいよ筑豊地方に突入します。

僕が福岡市以外で一番よく訪れていた地域である。特に春先になると飯塚や直方の遠賀川岸に咲いている菜の花を見る目的でも行っていたところだ。

筑豊地区。

かつては多くの炭鉱があり非常に栄えていた。

主要なエネルギーが石油に転換されるにあたりだんだん衰退していったが、現在もこの地に近代化遺産は数多く残っているのである。

とある財閥の屋敷もあるらしく、僕もよく知っていれば一度は訪れていたのかもしれない。

ちなみに、僕が住んでいたころ飯塚出身の麻生太郎氏が総理大臣になろうかどうかしていたころだ。

余談ではあるがこの文を書いている前年政権交代が起こり、彼は首相に上り詰めることは出来たのだけれども失脚してしまったのだ。

とはいえ、この寂れた感がなんとなくたまらない。

ただ何とかすればこの地域は再び活性化する可能性はあるのだろうと思う。

いつものように福北ゆたか線の電車に乗ってみた。

当日も晴天ではあったが、ここ数年春先から初夏にかけてもやのかかる状態が続くみたいである。

どうやら光化学スモッグも発生しているらしい。

昭和の良し悪し

昭和30年から40年代にかけてここ日本ではあちこちで様々な公害に見舞われた過去がある。

一時期、「昭和ノスタルジー」ということで昭和ブームが起こっていた。

高度経済成長期の最中勢いがあったのは確かなのだろうと思う。

その一方で、水俣病やイタイイタイ病、大気汚染による喘息(四日市ぜんそくなど)をはじめとして公害も発生したのは負の遺産としていまだに問題となっていることも事実である。

ちなみに最近起こっている光化学スモッグの発生原因は、これまで起こったことのない非工業の地域でも発生していることから、中国の経済発展によって西の方から有害な煙が流れてきているからではないかとも推測されております。

過去の経験から現在の日本においてはなるべく環境に負荷をかけないよう各企業努力をしている最中である。

二酸化炭素の排出量を抑えることはなかなか大変であるけれど。

話がずれてしまった感があるので、再び筑豊地区について。

直方市や田川市なども筑豊の中心として栄えていたそうですが、

(非常に写り悪いながらも)今回残っていたのは、飯塚市と北九州市若松区あたりを中心にしています。

飯塚市

五木寛之「青春の門」の舞台にもなっていたり、長崎から砂糖が伝わった影響もありいろいろなお菓子屋さんもあったりします。

遠賀川から見たいわゆるボタ山。筑豊の象徴でsる。飯塚市にて。
遠賀川から見たいわるボタ山。飯塚にて。

嘉穂劇場。筑豊にある芝居小屋。
嘉穂劇場。

先ほどの2枚は飯塚市にて撮影したものです。

なかなか他の地域では見うけられない光景だろうと思う。

左はかつてここに炭鉱があった証拠であるボタ山

あと見ることができる地域といえば糟屋郡、北海道の夕張市あたりなのだろう。

右側は飯塚市内にある大衆劇場である嘉穂劇場

炭鉱で栄えた名残なのかな。

外から見ただけであったがなかなか味のある建物だと思いながらそばを通りすぎていったのであった。

ちなみにここでは椎名林檎さんもライブを行ったこともあるそうです。

飯塚から筑豊線を北上すること1時間ほど。

北九州市若松区

ほぼ九州の北側にある北九州市若松区に足を延ばしてみた。

ここもかつて石炭の積出港として繁栄した証拠が残っています。

門司港とならんでレトロな建物が並んでいる。

若松駅付近の港にて。
若松駅付近の港にて。

若松駅付近にて。ここから各地へ石炭が積み出されていった。

若松港が栄えていた当時、ここにターミナル駅があり貨物用の路面電車も走っていたそうです。

また、多くの水夫さんたちも働いていたらしい。

また一時ここに写っている洞海湾の水質汚染は本当にひどかったらしいのですが、ここ最近はだいぶ魚も棲めるまでに改善されてきています。

なお、現在は洞海湾沿いにくらべ、響灘沿岸に広大な埋立地ができており港の機能は移されているとのことです。

ちなみに若松到着後はしばらくボケッとしたのち、若戸渡船に乗り込み戸畑に渡りそこからバスや電車を使って小倉や門司港界隈によく行っていたものです。

小倉や門司についてはまた後述する予定です。

なお、参考にここでは載せていませんが新飯塚駅から田川方面の列車に乗り、田川で日田彦山線に乗り換え小倉あるいは日田に向かうというコースも考えられます。

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若松にも洋館はあるのだ。映画の撮影に使われたことも有。

若戸大橋。
若戸大橋。

渡し船の船内から若戸大橋を見上げる。

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